夜桜お慎50〜59
「この度は、ウチの馬鹿がとんでも無い事を…」
ほんの十日前に会った時に見た、あの大らかで鷹揚な気配は影を薄め、険しい表情のまま、下総組組長は一吾に頭を下げました。
「まだ何も分かっていません。まさか二人で心中したわけでもないでしょうから、その内帰って来るでしょう。ウチとしても古い付き合いのあるそちらさんと事を大きくしたくはありません。今も二人を探させてますから、全ては事態が収集した上で考えましょう。ところで」
「はい」
ばっ、と組長が顔を上げます。
「貴方の息子さんは、慎吾と二人で話したがっていたようですが、心当たりはありますか」
「それが…正直、どうしてなのか。確かに、島崎組を羨むような事は言っていましたが、何故弟さんなのかは」
「ウチを?」
「…えぇ、組を縮小されても未だ変わらぬ影響力を持っている…、更にとてもその、潤っているようだなどと。今や、どこの組も苦しいこの時勢に」
「なるほど」
 島崎組を妬むような材料はあったようです。という事は、慎吾を恐らく脅したのもその辺についての事なのでしょうか。ただ、危害を加えるような程の事とも思えませんでした。和己は少し安堵し、しかし真相はまだはっきりしないのだと、緊張感を維持し、状況を見守るのでした。


「あの〜、明さん?」
「あ、なんスか」
「そろそろ帰りませんか。多分、騒ぎになってますけど」
「ですよね」
「下手すっと、お互いの組に亀裂が入りかねないっつーか。いやもうちょっと入っちゃってっかも」
「ですよね…。てか慎吾さん、帰ったら良いじゃないですか。別に縛ってるわけじゃないし、鍵も開いてるし、いつでも逃げられるじゃないスか」
「いやまあ、そうなんですけど。オレ一人で帰るより、二人で帰った方が事も穏やかに済むかなって」
「そうっすよね…すんません、何か気ィ使ってもらっちゃって」
「いやいーんスけど。つか減りましたね、腹」
「あ、もうすぐピザ届くんで…」
「じゃ、食ったら帰ります?」
「そうっすね」
「てか、この部屋って個人で借りてるんすか?」
「あー、ちょっと前まで彼女と住んでたんスけど、何か逃げられちゃって。最近借りたばっかだったんすよ。だから組の連中も知らないし。でも何が気に入らなかったのか全然分かんないんですよねー。何すかね、女って何考えてんのか分かんねっス」
「あー、まぁそうですね。あ、ピザ来たんじゃないですか?」


 時刻は既に、十一時を回った頃でした。島崎組の組員、下総組の組長と幹部数人が息を詰めて報告を待つ中、一吾の携帯が鳴りました。
「もしもし」
『あ、オレオレ』
「慎吾か?!」
『うんそう、慎吾』
およそ二時間に渡った緊張感に似つかわしくない慎吾ののんびりとした声が、通話口から聞こえてきます。どうも事態は思ったほどの事では無かったようだと一吾は判断しますが、腹の虫は収まりません。
「テメェ今どこにいやがんだ、あ?事と次第によっちゃただじゃすまねえぞコラ」
『いや、色々あったんだって。それでさ、今からタクシーで戻るから。明君と一緒に。え〜っと大体…ん?あ、三十分ぐらい?えっと三十分ぐらいで戻るわ。じゃ』
「待てコラ!」
しかしあっさりと通話は切られてしまいました。

 慎吾はそれからきっかり三十分して、下総組の長男と共にタクシーで帰ってきました。前庭で待ち受けていた和己達の心配もどこ吹く風といった様子で、緊張感の無い顔で「ただいま」などと言う始末です。一吾に詰め寄られると「お騒がせして済みませんした」と一応の謝罪はしたものの、いまいち誠意が感じられず、和己は釈然としません。慎吾が視線を投げてきましたが、それを睨みつけて返したのでした。緊張と不安に包まれた時間を返せと言ってやりたい気分でした。
 一方、下総組長男にして今回の事件の発端である明君は、タクシーを降りてからも顔を下に向けたまま微動だにしませんでした。しかし組長である父親がズカズカと近寄っていき、顔面を物凄い力で平手打ちしました。バチン!という大きな音が夜空にこだまし、明君はその場に倒れました。
「島崎さんに詫び入れんかい!」
怒声が飛び、その声に操られるようにして明君が跪きます。その横に自らも跪き、土下座をしました。
「この度の件、謝っても謝りきれるものではありません。きっちりカタ付けさせていただきますんで」
心から搾り出したような声を出して、砂利に頭を擦り付けます。
「下総さん、事情は後から慎吾に聞きますが、二人とも大事無かったようですし、頭上げてください。くれぐれも早まった真似だけは」
「しかし…!」
なおも言い募る組長を説き伏せ、時間も遅いことだからと、一吾はその場を収めたのでした。


 下総組を帰らせてすぐ、一吾は屋敷に上がり、慎吾に事情を問い質します。 「明君が話があるっていうんだよ、二人で。でさ、どうしてそんなに組運営は上手くいってるんですか、ってちょっとしつこかったわけ。でも言うわけにいかないでしょ。まさか会社やってますなんて。やっぱヤクっすかとか、振り込め詐欺大々的に始めたんすか、とかさ。そこは否定したんだけど。話してるうちにヤクザの将来性について熱く語り始めてさ、その内お先真っ暗だとか、優秀な弟に自分は将来の組長の座も奪われるんだとか、愚痴になっちゃったわけ。この時点でマジ帰りたかったんだけど。何かちょっとウルウルしちゃってるしさ」
「……」
「帰っても良いか聞いてみたんだけど駄目って言うし。それどころか、組運営について話すまでは帰ってもらうわけに行かないとか言ってさ。もし帰った興信所使ってオレの事調べ上げるとか何とか言い出して。やべーじゃん、勤めてる事バレたら。したらここじゃ落ち着かないから二人でしゃべれるトコ行きましょうとか言うからさ。しょうがなく着いて行ったワケ」
「ついて行くな馬鹿」
「いやだって、オレに何かしたらマジ戦争になっちゃう事ぐらい分かってるだろうと思うしさ」
「大体ちょっと調べられたぐらいじゃ分からないようにはなってる」
「そうなの?」
「組にとっても会社にとってもヤバイ橋渡ってるわけだからな。それで?」
「そうなら言ってくれよもう。まぁそんで、何かアパートに辿り着いたんだけど、歩いてる間に段々冷静になったのか、”慎吾さん脅してこんなトコ連れてきたってバレたら親父にぶっとばされる”とか言い出して。正直ぶっとばされる所の話じゃねーだろ思ったけどさ。”オレはもう駄目だ”とか、”これだから弟に差付けられるんだ、親父がオレを見て溜息付くんだ”とか。ぶっちゃけそれも仕方ないんじゃないかと思ったけど、既に二時間ぐれー経ってたし、騒ぎに絶対なってっし。若干同情してさ。二人で仲良く帰れば良いんじゃね?って結論に最終的になったんだけど」
「携帯は」
「会社の着信履歴とか色々入ってっから探られたらヤベーと思って、歩いてる途中で適当に捨ててきた。後で拾ってくるわ」

 気がつけば時計の針は十二時を回っていました。若干疲れたような顔の一吾は集まっていた組員たちを解散させ、しかし慎吾、木下を呼び止めます。
「あいつどうなんの?」
下総組一同が帰っていった玄関を見やって慎吾が尋ねます。
「まぁ、厳重注意プラス長期謹慎てとこだろ。野郎の小指なんて貰っても嬉しくもなんとも無いしな。…ところで慎吾」
「な、なんだよ」
「お前は裕樹(木下)共々一週間の謹慎だ。反省しろ」
「何でだよ。不可抗力じゃね?寧ろ穏便に済んでんじゃん」
「心配を掛けた罰だ。その程度のケジメぐらいつけろ」
「会社どうすんだよ」
「出張にでも行くって事にしとけ。それ踏まえて親父に報告しとくから」
「マジかよ…」
「出るなよ、屋敷から」
言い捨てると一吾はさっさと引き上げていきました。その場には、慎吾と木下、そして和己が残りました。
「じゃ、慎吾さん…、オレも失礼します」
この数時間の間ですっかりやつれた風の木下が、とぼとぼと部屋へと帰っていきます。
「大丈夫かアイツ」
そう慎吾が一人ごちると、和己がギロリと睨みつけました。
「何だよ…お前も説教かよ。つか疲れたからオレ寝るわ」
もう勘弁して欲しいとばかりに言いますが、「オレも行く」と後ろから付いてきました。

 慎吾が部屋に入り、続いて和己が入って戸を閉めます。何を言われるのか少々面倒に思いつつ振り返ろうとすると、突然背中から抱きしめられます。
「な、に」
「心配するだろ…」
溜息と共に吐き出された一言に、和己の思いが集約されているようでした。その低くて重い声に、慎吾は今度こそ反省し、「ごめん」と小さく返します。さらに言葉を紡ごうとすると、手でがしがしと無遠慮に髪の毛をかき混ぜられ、「このアホ」と身体を離して頬を引っ張られ、挙句に額に軽く頭付かれます。
「いてぇ」
涙目でした。
「もうホントに、気をつけろ。悪い人には付いていくなって言葉知らないのか」
「いやだから…ってか小学生じゃねえんだから」
「携帯取りに行くんだろ」
「…あぁ、明日にでも」
「帰りに機種変更して来い。GPS携帯な」
「はぁ?それこそ冗談じゃねーよ。子供じゃあるまいし」
「大して変わんねえだろ。一吾さんも賛成してくれると思うな」
「…あのさ、兄貴に何か言われたの」
その通りでした。どうせ自分の言葉なんて慎吾は右から左へ聞き流してしまうだろうから、代わりに説教しといてくれと言われていたのです。言われなくても、和己はそのつもりでした。
「オレはな、まだこの世界で知らない事は沢山あるし、今日みたいな事が起こった時、どういう事態に発展して、どういう行動を取るのが最善なのか、まだ良く分からない。ただ最悪、事と次第によってはお前を失う可能性だってある事ぐらいは分かった。背筋が寒くなった。だから、何でもやれる事はやっとくんだ。そしてお前は、もしまたこんな事があったら、心底打ちのめされる人間の事を思い出せ」
俯きがちに、真摯に和己は語りました。
「…うん」
慎吾も判っていないわけではありませんでした。しかし不測の事態が怒った時こそ悠然と構えていた方が良いと思っていましたし、なるようにしかならない事もあると思っていたのでした。ただ、和己が言いたい事は身に染みて分かったので、ただ頷くのでした。

 次の日の朝、和己が目を覚ますとそこは慎吾の部屋のベッドの上でした。隣には裸の慎吾がすうすうと気持ち良さそうに寝息を立てています。昨晩の事を思い出し、オレは何をやっているのかと自己嫌悪に陥ったのでした。一吾に反省するように説教を頼まれたにも拘らず、結果的にこの有様です。時計を見ると、判を押したように規則正しい生活を送っていたお陰か未だ六時頃であることを確認しほっとします。そして脱ぎ散らかした服を集め身につけ始めました。昨日は唯、慎吾が戻ってきた安堵感で心が開放され、話を思ったより素直に聞く慎吾が愛しく思えて気がつけばそういう事になっていたのでした。しかし褒められた事ではありません。慎吾に趣味が悪いと言われたTシャツを頭からかぶると、妙に騒々しい足音と声が聞こえてきました。
 ドスドスドス、と荒々しく廊下を歩く音、そして、慎吾はどこだと声を張り上げるのは、久しぶりに聞く、しかし忘れようも無い人物の声でした。
「悟さん、まだ寝ていらっしゃいますから!朝の六時ですよ!」
宥めようとする組員を無視し、こちらに向かっているであろう相手は、上司であり島崎組組長でもある慎吾の父でした。和己にとって最も恐れる、というより厄介な人物です。
 頭から血の気が引いたのが分かりました。こんな現場を見られたら一間の終わりです。夕べの慎吾の行方不明事件どころの騒ぎではなく、確実に山か海に埋められるか沈められる自分が一瞬にして脳裏をよぎります。
「慎吾起きろ!」
必死に肩を揺さぶります。不機嫌そうに目を開けるのもお構いなしに言い募ります。
「お前の、社長の、組長が、来るんだよ!」
何を言っているのかも良く分かっていませんでした。足音はもうそこまで迫っていました。慌ててハーフパンツを履き、部屋を見回すとクローゼットにすぐさま身を隠しました。情けないなんてもう言っていられず、ただ身を守ることに専念します。

「慎吾!」
 怒鳴り声と同時に、磨りガラスの引き戸を開けようとして鍵に阻まれる音が、ガキィンと派手に響き渡りました。その音が和己の心臓の辺りをキュウウと締め上げます。
「何だよ…」
眠そうな、そして不機嫌そうな慎吾の呟きにかぶせるように「開けろ!顔を見せなさい慎吾!」と悟の声が聞こえてきます。その後引き戸を開けた慎吾と、父、悟のやり取りが聞こえてきました。
「聞いたぞ、行方不明になったってどういう事だ!」
「聞いたんだろ?そういう事だよ」
面倒臭そうな声色で返します。
「大体何なんだよ、こんな朝早くからよ。何時だと思ってんだよ。どんだけ早起きだよ。もうそんな年だっけ?」
「今日は何だか目が覚めたんだ。虫の知らせってやつだな。何となく家族はどうしてるかなってホテルから電話かけたら、一吾が、お前が昨日姿を消してたとか眠そうな声で言うじゃないか。しかももう解決したから心配するなとか。お父さんを何だと思ってるんだ?いくら普段家に帰ってこないからって、いつもいつものけ者にして!」
「ちげーよ。兄貴が知らせるまでも無いって判断したんだろ。正しいじゃねーか」
「それは若頭としては正しいのかもしれないけどな、家族としては間違ってるぞ!」
「じゃあ兄貴に言ってくれよ…。つか寝てえんだけど。さっきまで気持ちよく寝てたのに…ってアレ」
「何だ」
「いや何でも…じゃ、そういう事だから」
ガラガラ、ピシ、ガチャ、と戸を閉めてしまったのが音で分かりました。悟は暫く「話は終わってない」、「開けなさい」と粘っていたようでしたが、諦めて去っていったようでした。

 慎吾は姿が見当らなくなったと思っていた和己を探し、クローゼットの扉を開けました。すると服に埋もれるようにして、体育座りの格好で大きい身体を縮こまらせ、佇んでいました。
「すげーな。よく入ったなそんな狭いとこ」
感心したように言うと、固まっていた和己は起動ボタンを押されたロボットのようにのろのろと立ち上がり、出てきました。溜息を一つ付くと、「ヤクザの女に手え出した間男の気分だった…」と少しの間にやつれきった様子で言います。
「若干合ってるよなぁ」
笑いながら言うと「笑い事じゃねえ!」と返されました。
「社長に裸で一緒のとこ見られたらどうなると思う?良くて破門、クビだぞ。悪くて山か海に捨てられる」
「何で。悪い事してねぇのに」
「あのな、いくら俺達の事を知ってたとしてもだぞ、実際に見るのと見ないのとじゃ衝撃が違うんだよ。しかも親父さんはどうも過保護と見た」
「あんま帰って来ねえ分、余計に構いたがるんだよな、どうも」
「寿命が縮む。早く部屋に戻る」
そう言うと和己は服を身につけて、慎吾の部屋を後にしたのでした。


「ねぇ一子さん、どう思う?僕って慎吾にウザがられてるかなぁ」
「鬱陶しいとは思っているでしょうね」
 急に朝早く帰ってきた夫に、自分の思いも乗せて答えます。
「でもほら、これまでちょっとしか構ってやれなかったからさ」
「構ってやらなかったからって、自分の都合で構いだすのは親のエゴじゃないかしら」
妻の正論に悟は何も言えません。一子は気付かれぬように溜息を付くと、フォローの言葉をかけます。
「でもあの子は元々、構われすぎるのは嫌いだから、見守るぐらいが丁度良いんですよ。別に貴方が嫌いなわけではないんですから」
「そうか、そうだよなぁ」
嫌われていない、イコール、好き、と悟はポジティブに捕らえてあっさり元気になりました。
「一吾はどうだろう。いっつも隙が無いからどう接して良いのか分からないんだけど」
「あの子は出来る子だから、それが当たり前と思われてますでしょ?でも実は慎吾とは違って構われるのが嬉しいんじゃないかしら。今度褒めてやってくださいな。きっと喜びますから」
「そうかぁ。僕に褒められて喜ぶかなぁ」
「喜びますよ」
そう言われて悟は機嫌が良くなります。良くなりすぎて「今日は会社休もっかなぁ」などと言い出す始末でした。
「会社は行ってください」
厳しく言うと、「じゃあ午後出勤にする。だっていつも頑張ってるからね」と言い訳のように言うのでした。

 約一ヶ月ぶりに、島崎家は広間で朝食を囲みます。
「じゃあ、昨日は下総さんとは上手く行ったんだな?でも向こうは組長直々に出向いてきたのに僕が挨拶しなくていいんだろうか」
「元はといえば向こうが発端ですから気にする必要はありません」
普段と変わらぬ様子で、一吾は味噌汁を啜りながら答えます。
「そっか…。一吾がいつもしっかり組を取り仕切ってくれるから、助かるよ。安心して働いてられる」
早朝の始終パニックに陥った様子とは一転してそんな言葉を掛けられ、暫し一吾は呆然とします。しかし嬉しくもあったので照れつつ「いえ」とだけ返しました。
「ところでもう二十代後半だろ?彼女の一人や二人はいないの」
「特にいないですね」
冷静に返す一吾に対し慎吾は「(特定じゃない彼女の三、四人はいるみてえだけどな)」と思うだけに留めます。
「一吾ぐらいの年には僕たちもう結婚して二人とも生まれてたからなぁ。心配だよ」
白ご飯を一口食べ、一吾を見やりますが、まったく意に介する様子も無く淡々と食事を進めているのでした。
「あの河合はどうなの。お父さん全然知らないけどちゃんとやってんの?」
「え、まぁ、そりゃ…」
あまり聞かれたくない話題を振られて、慎吾は少ししどろもどろになります。
「会社での様子は知りませんけど、土日は自分の時間を犠牲にして、屋敷で働いてくれてますよ」
一子がフォローを入れました。
「そっか。…ふーん、そうなのか」
考えながら、どっちつかずの様子で受け答えします。悟は今現在和己の事を、自分達の事をどう思っているのかと慎吾は考えますが、こちらから話題を振って、やぶ蛇にでもなってはかなわないと思うのでした。
 その日の島崎家の朝食は、ぎこちないながらも悪くない雰囲気の中進んだのでした。
ブログでの文章を、多少修正しています。

  
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