夜桜お慎40〜49
 その日、会社でしっかり働き終えた和己は、実家ではなく当然、島崎組へと帰ります。
 家族へは、会社の寮へ入ることになったと、少々苦しい言い訳をしていました。両親は、入社した後になってから出てきた話に多少いぶかしんでいる様子でしたが、一応納得したようでした。
新入社員でまだまだ覚えることの多い和己は、仕事に慣れない事もあって疲労感を感じつつも、これからだ、と気合を入れます。
 屋敷内の組員用らしい食堂で一人遅い夕飯を食べ、寒い部屋へと戻りました。時計を見ると九時を回っています。着替えをし、惰性で小さなテレビの電源を入れ、眺めているうちにいつの間にか眠っていたのですが、ゴンゴン、と襖をノックする音で目が覚めました。開けると、そこにいたのは昨日と同じく慎吾でした。
「おい…何やってんだ」
「夜這い?」
疑問系で首を傾げつつ言います。
 実は昨晩、あまり他の人間の目についてはいけないだろうと、会うのは週に一度程度にしておこうと言ったばかりなのでした。
「夜這い、じゃねーだろ」
小声で叱りつつ、慌てて部屋へ入れます。
「何考えてんだ。昨日の今日だぞ」
「だって会いたかったんだよ。せっかく一つ屋根の下に居るわけだしさ。てゆーか一つ屋根の下って事はさ、一種の同棲と言えなくも無いよな」
「あのな…」
お前の家族も、いかつい組員も何人も居るだろーが!と言いたいのですが、とにかく今は他につっこむべき点を優先します。
「バレたらマジでヤバイだろーが!一吾さんが言ってたろ、示しがつかないって」
「だからバレねーように注意して来たんだろ?もう十一時だしさ」
「はぁ…」
いまいち慎吾には事の重大さが伝わってないようでどう言えばいいのかと頭を抱えそうになるのでした。
「大丈夫だって。お前がそりゃ気にするのも分かるけど。つーか、嬉しくないのかよ」
いじける様な表情になった為、そんな事ない、とフォローするのでした。勿論、会えて嬉しくないはずは無いのです。

「そりゃあ、嬉しいに決まってるけど。でも、誰にも見られないってのが前提だからな?」
「分かってるって。ていうかさ、スーツじゃん。脱がしたい。ネクタイとか取りたい」
本当に分かっているのかと言いたくなりました。
「なぁ慎吾、帰って来る時に気付いたんだけど、前庭の桜が散り始めちゃってたんだよ」
「…桜?」
急に別の話題を振られて、思い切り怪訝な顔になりました。
「完全に散っちゃう前に、ちょっと見物したいと思ったんだ。お前と」
「オレと?…いーけどさー」
ヤる気満々で来たらしい慎吾はやや不満げでしたが、二人で辺りを気にしつつ部屋を出、前庭に出たのでした。

「慎吾、ちょっと桜の前に立ってみてくれ」
「何で」
「良いから」
 言われるがまま、慎吾はライトアップされた桜の前に立ちます。花びらが舞い散る中に立つ慎吾は、着ているものこそ違いましたが、四年前の別れ際の光景そのままでした。和己は目を細めて、慎吾を眺めます。
「やっぱり、良いな」
「何か言った?」
「お前さ、結構似合うよ。桜が。何だろうな、佇まいっていうかな。環境が環境だからか知らないけど、似合う。雰囲気があるっていうか」
「ふぅん?」
「四年前も思ったんだ。凄く良いと思った。羽織を着てさ、お前がオレを振り返ってこっちを見た時、お前が腹を括ったんだって分かった。その顔が、今まで見たことの無い顔だったから、少し圧倒されたんだ。…綺麗だった」
「…何だよ、告白かよ」
オレが好きでしょうがないんだろ。などと笑いつつも、少し照れた風でした。
「そうだな、告白だ。惚れ直した」
「……」
あまりにあっさり認められてしまって、照れの方が上回り、慎吾は何も言えなくなってしまいました。

「来年も、こうして桜の木の下に佇んでるお前を見たい。再来年も、その先も、ずっと」
「…何、もしかして告白通り越してプロポーズか?」
「うーん、そうなのかもなぁ。そうだったら受けてくれるか?」
すると慎吾は一瞬嬉しそうな顔になったものの、顔を俯かせました。
「…保留」
小さく、呟きました。和己は落胆する気持ちを抑え切れません。
「保留か…。そうか」
「まだ、分かってないんだ」
「…?」
「お前を、そこまで縛っていいのかとか。色々考えるだろ、将来の事とかは。でも答えは結局出ないから、最近考えないようにしてる」
「そうか」
和己は、慎吾の下に歩み寄りました。慎吾の頭に少し乗っていた花びらを払い、抱きしめました。慎吾も腕を回し、首筋に頭を埋めてきます。
「近い未来だったらどうだ?後数年は、傍にいさせて欲しい」
「そりゃ、良いに決まってる。オレだって居て欲しい。お前がそう思ってくれるなら」
「なら良かった」
髪を撫でつつ和己が考えているのは、言葉とは違った事でした。本当は慎吾を一生縛り付けるために、何でもしてやるという気持ちすらあったのでした。しかし、そんな事は表には出さず、ただ穏やかに桜の下で、慎吾に寄り添うのでした。

 和己が、慎吾の父である悟が取締役を務める会社に入社し、また同時にヤクザ者となって三ヶ月が過ぎようとしていました。平日は、まだ慣れない会社勤め。そして休日は下っ端ヤクザとして、屋敷の掃除洗濯炊事等々をしなければならないという過酷な条件下で、それでも地道に励みました。精神的、肉体的疲労はどうしても感じるものの、それでも慎吾に会えなかった四年間を思えば、頑張れてしまうのでした。
 慎吾は時々、夜に和己の部屋を訪れました。
あまり頻繁に行って他の人間に見咎められるのを危惧した兄の一吾に、言い含められてそうしていたのですが、自身も、バレるとまずいという事はさすがに分かっていました。和己はというと、疲れ果てていても慎吾の顔を見ると信じられないくらい元気が湧き出てきました。

 そんなある日の日曜、和己はたまたま一吾に、書類を慎吾の部屋に届けるように頼まれました。一吾の弟分である和己が、公で慎吾に接触する事は日常、あまりありませんでした。

「慎吾さん、失礼してよろしいでしょうか」
和己は、島崎組において目上の人間である慎吾には敬語を使う事になります。
「どーぞ」
軽い返事が返ってきたので、ガラス戸を開け、一歩中へ入りました。
「一吾さんから、預かってきました書類です」
慎吾は机に向かって何か書き物をしていました。顔も上げず、「持ってきて。…あ、戸閉めろよ」と、そう言って手招きされます。言われたとおり戸を閉めて書類を持って近づくと、突如服の襟元を捕まれて口付けられました。驚きのあまり手にしていた書類を落とします。慎吾はそのまま十秒ほどそうした後、解放しました。
「び、びっくり…しま、し、」
目の焦点が定まらぬまま、それでも敬語で律儀に言葉を紡ごうとする和己を制して、「敬語とかいいから」と慎吾は落ちた書類を拾います。
「お前は良くても、その、」
身体が固まった状態でまだどこか呆然としていました。
「誰もいねーし、見てねーだろ」
書類に目を通しつつ、慎吾は事も無げに言います。
「だ、だから、オレが敬語に慣れるのにどれだけ時間がかかったと思ってんだ!今だって切り替えるのに必死なのに!他の人間の前でうっかりタメ口ききそうになったらどうしてくれるんだ!」
 和己の言い分は最もといえば最もでした。日頃は若頭の慎吾を出迎え、頭を下げ、粗相をしようものなら土下座してでも許しを請わなければならない立場です。それこそ厳しい縦社会であるヤクザ社会に於いて、和己と慎吾は天と地ほども違うのでした。
 だというのに夜になると慎吾が、ハートを一杯飛ばさんばかりの勢いで名前を読んで抱きついてきます。私事と公とを使い分けるのが一杯一杯である和己にとって、軽い拷問と言えなくもありません。
「もっと柔軟に構えようぜ」
のん気に慎吾は言います。
「無理だ。ここに来てはっきりと分かった。オレはそういう柔軟性とか適応性は無い!」
若干、疲れを覚えていた和己はすっぱり言い切ってしまいました。
「じゃ、命令」
冷たい目で、慎吾はそう言いました。

「和己」
 冷たい眼光と差し出された手にふらふら寄りそう和己に、慎吾はのしかかるように抱きつきました。匂いを嗅ぎ、首筋にキスを落とし、うなじを撫で、耳元で囁きました。
「嘘だって。命令とか…」
嘘。嘘。和己は何度か慎吾の言葉を反芻しました。
「お前の部屋に行ったの三日前だろ。でもそん時疲れ果てて殆ど寝てただろ。ろくに触れてねーし、若干イライラきてたんだよ」
身体を離し、顔を見ると、そこにいるのはいつもの慎吾でした。しかし先程の冷たさを帯びた姿がどうにも頭を離れません。舎弟に怒鳴ったりしている方がまだしも可愛く思えてしまう程でした。慎吾は携帯を取り出すとボタンを押し、暫くして話し始めました。
「あ、あのさ、和己はこの後オレ確保だから。いーよな?」
そうしてフラップを閉じると手招きします。再び抱きつかれ、「そういう事だから」と言うものの何の事だか分かりません。そもそもこの後も和己には色々と用事があったのでした。
「そういう事って何がだ。一吾さんトコ戻らねーと」
「だから、兄貴と話つけたから」
「オレ何も了解得てないし。お前が良いって言ったって」
「だから、兄貴が『勝手にしろ』っつったんだよ。お前最近ずっと一吾さん一吾さんてウルサイ」
「…いやでも、五時から晩飯の手伝いしねーと」
なおも言い募る和己に慎吾が大きく溜息を漏らします。
「その書類、別に今日じゃなくてもいいんだよ。オレが和己に会えないって、ご飯食べながらぶうぶう文句垂れてたら、兄貴が『分かった』っつったの。だから今日はお前は何も気にする必要ねーんだって」
頭を摺り寄せつつそう言います。和己はようやく合点が行ったものの、後で何か言われないか、そんな我侭通して大丈夫だろうか、といった事を考えてしまうのでした。染み付いた上下関係は中々抜けません。
「和己」
名を呼ばれてはっとします。
「他の事考えんな。今はオレの事だけ考えてりゃいーだろ」
睨まれ、そういえば今はそうするしかないと頭を切り替えようとします。
「大体さぁ、お前休みにせっかく二人になれて嬉しくねーのかよ」
ベッドのある方向に腕を引かれつつ戸に鍵がかかってない事を思い出し、「鍵!」とガラス戸を振り返りました。
「誰も来ねえ」
苛立ちが募ったような声で言われ、「つーか待てねえ」と追い討ちをかけるように慎吾に凄まれ、今度こそ和己は観念したのでした。


「和己、一緒に来い」
 あれから一週間後の日曜日、今度は一吾に誘われました。誘われたとは言っても、舎弟としての仕事の一環です。言われるがまま、黒塗りの高級車の後部座席に一吾と共に乗り込みます。唐突で、一体何処に向かうのかと問うと、島崎組傘下の組の一つだという答えが返ってきました。
「先代の三回忌だ。今じゃウチ関係では一番古い組だからな。こういう冠婚葬祭は大事な行事なんだ」
そんな行事に下っ端の自分などが言っていいのだろうかと不安に思うものの、それよりも身に着けている衣服がごくラフな格好である事に焦ります。気がつけば運転席と助手席の人間も、そして一吾もビシっと喪服で決めているのでした。
「スーツは途中で買ってやる」
戸惑いつつも、頭を下げて礼を言う事は忘れません。
立ち寄ったスーツ店は明らかに敷居が高そうで落ち着かない和己でしたが、あれよあれよという間に採寸され、その場で丈を合わせたスーツを手渡され、そのまま試着室で身に着けると、すぐに車は発進しました。和己は改めて恐縮しつつも礼を言います。
「慎吾の機嫌はどうだ」
「え?」
「メシの時にグダグダ煩かったんだ。直ったか」
「は、はい…」
どういう顔をしていいやら分からず、助手席のシートを見つめて固まったまま答えます。
「仕事は。会社と組と、慣れたか」
「…まだまだ、至らないですが。何とか」
「三ヶ月足らずじゃなぁ。でもまぁ、大変だろ。会社員と組員の二足のワラジだからな」
「…一吾さんは、今は組だけなんですか?」
物を訊ねるのにも気を使います。野球部での上下関係を思い出しますが、それよりも更に緊張感を強いられているのは確かです。
「まあな。ただ最近は勉強させられてはいるから、会社に関してはお前らのが先輩だ」
勉強と考えて思い出すのは、かつて慎吾についていたというオカマ家庭教師でした。一吾もやはり同様なのかと考える一方で、島崎組と島崎ホールディングスの両立について考えます。
車はやがて大きな屋敷の前に着きました。ドアを和己が開けると、一吾が降り立ちます。屋敷は島崎組程ではないものの、立派な日本家屋でした。屋敷の周りには既に到着している車がぐるりと囲むように何台も停まっていました。更に門をくぐり、家屋に入り、大きな広間へ通されるとそこにはコワモテの人間が何十人も所狭しと座っていました。さすがに緊張しない訳がありません。自然に表情がこわばる和己に、「別に何もする事はねえからただ座ってろ。直終わる」と一吾が声をかけるのでした。

「おう、初めて見る顔だな。新入りか?」
厳かに法要が執り行われた後、部屋を変えて行なわれた会食会が進む中、末席でちびちびとビールを啜っていた和己に、声をかける男性がありました。どこぞの組の幹部や組員連中に忙しなく杓をしてまわり、改めて会社の新年会などとは全く違う緊張感に晒されながらもようやく自分の席に落ち着いたと思いきや今度は声を掛けられて、どうにも落ち着けない時間でした。
「島崎組の河合と申します」
「珍しいなぁ。島崎さんが新入り入れるとはな。よっぽど見込まれたのか?」
複雑すぎる事情はとても話せないので、「そんなわけでは…」と恐縮しつつも言葉を濁すしか出来ません。
「まあまあ、硬くなるな兄弟」
と、空いていた隣の座布団にどっかりと座るその男はガタイが良く、年のころは五十といった所でした。しかし何より、大物臭が漂う鷹揚さに腰が引けそうになります。そのままとっくりを傾けられ慌てて杯を差し出し、すぐに返杯します。この調子では今日はどれだけ飲む事になるのだろうと内心思いつつ、酒に弱くなくてよかったと安堵します。この世界は、酒に弱いようではやっていけないようでした。
「島崎さんは安泰だろう?一吾さんは立派な跡継ぎだし、次男の…慎吾君か。ウチの馬鹿息子に比べたら雲泥の差だ」
この一言で、組長らしい事が察せられ、慌てて座ったまま後ずさりし、入ったばかりの未熟者で誰かを知らなかった旨を平伏しつつ詫びます。色んなところから嫌な汗が流れっぱなしでした。
「いやいや、遅れたが下総組をな、やってるモンだ」
ほらもう一杯、と更にとっくりを差し出され、恐れおののきつつも飲み下します。もはや酒の味も分からなくなっているのでした。

 長かった法要がようやく終わり、一吾達と共に車に乗り込むと、少しだけ溜息をもらしていました。
「疲れたか」
「あ、すみません。…やっぱり慣れない場所で」
「まぁ、そうだな。…話しかけられてたな、下総組の…」
「はい。正直、何を喋ったのか殆ど覚えてません」
疲労が色濃く出た顔を片手で覆う和己に、失礼な事をしてなければ大丈夫だと、一吾は事も無げに言います。

 屋敷に着くとすかさず車から降り、先回りして後部座席のドアを空け、頭を下げつつ一吾を外へと導きます。段々とこういった所作も身に付くようになってきていました。玄関では出迎えた舎弟によって塩を軽く撒かれ、ようやく邸内へと入りました。
「今日はもう疲れただろ。休んでていいぞ。他の奴に今日は任せる」
と一吾に有り難い言葉を貰い、ほっとして自室の扉を開けると、そこに居たのは慎吾でした。昼間から慎吾が自分の部屋を訪れる事は無かった為、暫し呆然とします。一方の慎吾は「おお〜」なんて少し興奮気味に和己を上から下まで眺めるのでした。
「いや法事に行ったって聞いたからさ、待ってたんだよ。やっぱ良いよなぁ〜、喪服」
そういう事か…とつい溜息が出てしまいます。以前、スーツが良いと言っていたのを思い出しました。
「そりゃ不謹慎だろ」
言いつつネクタイを外そうとすると、慎吾が慌てたように静止します。
「オレが外すから!っつか、そうじゃねーと意味ねーだろ。その為に待ってたんだからさぁ」
「いやお前…」
言うのも疲れてベッドに腰を下ろします。
「疲れたんだよ。極度の緊張強いられてさ。正直、今すぐにでも着替えて横になりたい。んで寝たい。一吾さんにも今日は休んでいいって言われたんだよ」
「休みなら余計にイイじゃねーかよ」
「いや無理だ。何ていうか精神的に疲れた」
そのまま本当は横になりたいと思いつつも、高い喪服に皺が入ると思うとそれも出来ません。
「とりあえず、脱がせるなら脱がしてくれ。じゃないと横にもなれねえ」
そういうと慎吾は仕方ねぇなあ、なんて言いながら明らかにテンションの上がった様子でネクタイを外し始めました。しかしやたらと勿体をつけるので時間がかかってしょうがありません。ジリジリしつつもようやくズボンが下ろされると、すかさずタンスまで歩いて行き、適当な部屋着を取り出し、身につけます。
「ちょっとさ、それってどうよ。せっかく脱がしたのに」
ぶうぶう文句を言う慎吾を無視してすかさずベッドに倒れこみます。
「つか何その服。ダセエ」
和己は、ロンTにスウェットという格好でした。しかしそのロンTが、竜が派手な色で全面にプリントされた、いかにもな柄だったのでした。
「仕方ねえだろ…久保さんがくれたんだよ…」
睡魔に半分程は身を預けるような状態で、辛うじてそう返しました。和己が島崎組に来てから暫く経った頃、会社でも働き、土日は至って真面目に仕事(主に家事)をこなし、言う事にも素直に従う様子を見、兄貴分である久保は少し好感を持ってくれたようでした。
「オレあんま着てねえからよ」
そう言って、いくつかの私服を譲ってくれたのです。その事自体はうれしかったのですが、どれも趣味が良いとは言い難い、有体に言えばチンピラそのものの派手で着辛いものばかりだったのでした。かといってまさか着ないわけにも行きません。というわけで、部屋着だと思うことにし、時々は身につけるようになりました。また、着ているうちに抵抗が無くなってくるのが不思議な所です。
「なぁ〜、本当に寝るのかよ」
不満そうな慎吾の声が頭の隅にこだまします。辛うじて残っていた意識を総動員し、和己は手招きをしました。そうして身体を少しずらし、空いた布団の隣をぽすぽすと叩くと、慎吾は寄ってきて同じように横になりました。「起きたらちゃんと相手しろよな」と小声で零したのを聞いたが最後、和己は完全に意識を手放したのでした。

 それから三日後、事件は起きました。

「説明しろ」
 苛立たしさを隠そうともせず、一吾が木下に言い放ちます。組の人間が十人ほど集められた部屋に、和己もいました。
「…街で、本当に偶然、下総組の長男坊と出くわしたんです。向こうが声をかけてきて、暫く慎吾さんと二人で話をしたいと」
九十度に腰を折ったまま話し始める木下は顔色を失っていました。
「どうしてだ。慎吾と面識なんて殆ど無えだろ」
「はい。恐らく一、二回、どこかで顔を合わせたぐらいだと。しかし向こうは覚えていたようで。妙にしつこい様子だったので目立つのも嫌だと思ったのか、慎吾さんは言う通りに近くのカフェに入ったんです。向こうの連れも、私も暫く表で待っていろと」
 しかし三十分経っても二人は出て来ず、様子を伺いに店内に入った所、姿が無かったという。向こうの舎弟二人も慌てた様子で携帯を鳴らしたようだったが繋がらず、慎吾の方も同様だったと言います。そして今になっても、連絡は取れないままでした。二人を見失ってから既に、四時間が経過している事になります。
「何故気付かなかった」
木下の額にはうっすら汗が滲んでいました。側に付いていながら見失い、もしも慎吾の身に何かあったとなれば、ただでは済みません。ケジメを取るのがこの世界の常識でした。
「通りに面していたカフェだったのですが、出口が路地側にもう一つあり、そこから出たのだと」
「一吾さん、どうします」
一吾の一番古株である舎弟の一人が、声をかけます。
「親父にはまだ言わない方がいいだろう。もう一度近辺を探せ。…それから下総に連絡を入れる」
携帯を取り出し、いくつかボタンを押すと、耳に当てます。と、その時一人の組員が足早に部屋に入ってきました。
「下総組組長が直々に、今、来られてます」
携帯をパタンと閉じると、「すぐに通せ」と短く言い捨てました。

 慎吾が行方不明だと知った最初こそ驚き、うろたえた和己でしたが、暫くして冷静にならなければと心を落ち着けました。焦ったところでどうにもならないのです。
 和己は考えます。偶然街で出会ったという事から、恐らく計画的な行動ではないと。慎吾と共に消えていたというのも、普通のカフェでの話ですから、暴力的な行動には向こうは出ていないはずです。だとすると慎吾は同意の下で付いていった事になります。では何故付いていかなければならなかったのか。何か言葉で脅される材料があったのでしょうか。ばらされて困ると言えば、何かの秘密事ですが、これについては分かりません。ヤクザの世界に付いては分からないことがまだ沢山ありますし、島崎組、下総組、両方の関係についても、悪くない付き合いがあるぐらいの知識しかありません。そして下総組といえば、組長が一吾を引き合いに出し”うちの馬鹿息子に比べたら雲泥の差だ”と言っていた事が思い出されます。それが事実だとすれば、考えなしに組長の息子が引き起こした騒動、という結論に辿り着くのでした。
 しかし、慎吾は無事なのか、何処にいるのか、といった重要な事柄については何も分からないままです。おとなしく下総組組長が来るのを待つしかないようでした。


ブログでの文章を、多少修正しています。

  
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