和己と慎吾の物語2
 しかし横に立ったまま慎吾は特に何を言うでもなかった。

 踊り場の窓からわずかに入ってくる風が心地よく肌を撫でていくのを感じながら、慎吾の出方を窺う。
 それからたった数分だったかもしれないが、ようやくぽつりと慎吾は漏らした。
「あんま喋りたくねーの?オレと」
 そういう事じゃない。そうじゃないのだが、じゃあどうなのかと言われても、喋ることなどできない。
「それなら、話さねえようにするけどさぁ」
 どうしてそうなる。そうじゃないだろう。それより他に、まず言う事があるだろう。
「でもそういう訳にいかなくね?部活あんだしさー」
 ぽりぽりと頭をかきながら、ため息をつく。これではまるで、オレが私情を持ち込む駄目な主将のようではないか。
 いや実際それは否定できなくもないのだがしかし、だ。
 まずどう言ったものか分からず、頭の中を整理しようとした途端に、不幸にもチャイムが鳴り始めた。ようやく慎吾とまともに会話できるかもしれないチャンスだというのに。キーンコーンと能天気にすら聞こえる鐘の音が酷く恨めしい。
「あー、行くわ」
 そして慎吾もまた無情に、クラスへと戻ろうとする。どうする、どうしたらいい。どうすれば。
 頭の中がぐるぐるとまわり、何も考えられなくなった末に自分の手は、慎吾の腕を掴んでいた。
「あ?」
 怪訝そうに眉をひそめた顔を碌に見もせず、そのまま強引に腕を引っ張っていく。
 屋上へつながる階段を上り、着いた先のドアノブに手をかけたが―――――
 ガキッ
 と、鍵にあっさり阻まれる音がしただけだった。
「開いてねーの?」
 素直についてきていた慎吾はのんびりと言った。そしてそのまま床に、座りこむ。オレもそれにならい、隣に座った。日のあまり差し込んでこないそこは、教室などよりも涼しく、少し冷えた床の温度がひんやりと気持ちよかった。
「で?」
 話を促す慎吾は無表情、いや、ごくごく普通だった。面倒臭いでもない、怒っているでもない、雑談の続きを促すような、なんでもない顔。
 しかしそんな態度が酷く辛かった。もう慎吾の中では、あの時の事などなんでもないのだと言われているようで。いや、そもそも何かの感情を伴って引き起こされた行動ではなかったのだ。
「お前は、何なんだよ」
 気がつけば、理不尽な怒りが体中を支配して、それをぶつけてしまっていた。
「人の事なんだと思ってるんだ。あんな事はお前にとって、どうでも良い事か。気まぐれの冗談か。ふざけんじゃねえぞ。なめやがって」
 後々思い起こしてみれば、まさに理不尽というやつだったに違いない。
 おふざけで始めた慎吾に対して、完全にその気になってしまっていた自分。しかしそれを責めずにいられなかった。全くもって、恋愛感情というやつは、横暴で、言う事をまるで聞かない。
 しかし慎吾にだって、多少の責任はあるはずなのだ。その時の自分は、辛うじてといっていい理由を盾に、攻め立てた。
「馬鹿にしやがって…」
 内容など何もない、ただの怒り。後に続く言葉など出てこず、結局項垂れてしまった。怒った後は、少し泣きそうだった。心底情けない生き物だったと言っていい。
「つまりさ」
 その怒りの矛先であった慎吾は、先ほどと何の感情の変化も見せないままに、呟いた。
「やっていいっつー事?」
「……は?」
 言っている事がまるで理解できず、呆けた顔で聞き返す。
 しかし、次の瞬間には慎吾の顔がすぐそこにあった。
 続けて、感触が唇にあった。しっかりとした感触のそれは、キスじゃないのか?と茫然とした頭で思った。
 唇が解放されたら、どういうつもりだと言ってやるつもりだった。だが、中々解放されない。頭は再びぐるぐると迷宮に入り込み始める。
 と思ったら慎吾が離れた。そしてにやりとこちらを見て笑った。
 ああなんだ、OKなんだ。じゃあ遠慮しねえわ。まるで、そんな事を言うように。
 ぐいっと両肩を掴まれて再び唇に感触が戻る。
 この急展開はなんだろう。慎吾にとっての、オレの位置づけはどうなっているのだ。
 普通に接しておいて、これがアリだと知るや否や、何でもないようにキスしてくるという、都合のいい女のような。
 ああ、最悪だ。慎吾もだが、あんな風に笑まれて、こんな風にされている状況を、嫌がっていないどころか寧ろ喜んでさえいる自分がだ。

「あのさあ」
 一通りキスを終えた後、慎吾は何でもないように言った。
「お前オレの事好きなの?」
 瞬間、羞恥で頭が沸騰しそうになる。
 あんな事を言ったのだから、今さら否定などできない。だが、そんな言い方をしなくてもいいだろうと怒りが頭を支配する。
「好きじゃなきゃ、やらせねえよな」
 慎吾の顔を見れなかった。ただじっと床を睨みつけていた。
「オレは一応好きなんだけどさ」
 しかし次のセリフに度肝を抜かれる。こいつは何を言い始めるのか。
「じゃあ付き合う?あ、付き合うとかそういうのめんどい?」
 いや、そういう事じゃない。
 思えばこの男とこんなにかみ合わないのは初めてかもしれなかった。そういう事じゃないという言葉を何度か頭の中で繰り返した後、ようやくここに至って冷静な自分を取り戻す事が出来た。
「違うだろ」
「ん?」
「こういう時は、こう言うんだよ」
 やっとオレは慎吾を真正面から見据える事が出来た。
「”オレはお前が好きだから、付き合って下さい”だろ」
 一拍置いた後、慎吾が笑いながら言った。
「何で上から目線だよ」
「お前は好きな人間に対する態度がなっちゃいねえ」
「態度って!てか今更お前にかしこまって言う事でもねえだろ」
 相変わらず笑い続ける慎吾の頭をはたいてやる。
「うるせぇ。お前にそんな事言う権利なんかねえんだよ」
 ここ暫くの鬱憤や焦燥を、ここで慎吾に償わせなければならないと思ったし、比例して怒りもこみあげてきていた。
「大体一応って何なんだよふざけやがって」
「いや、重くね?マジな顔で言ったら」
「別に重くて良いんだよ。大体、お前は最初から最後までふざけてやがるのが気に食わねえ」
 ネクタイを握りしめて、ぐいぐい締め上げる。
「ちょ、マジで苦しい」
 ようやく笑い声がおさまってきた。
「人の事を何だと思ってんだ。あ?別にどうでもいいみたいな態度で人の事傷つけて、えぇ?」
「え、傷ついてた?…ゴホッ」
 咳き込み始めたのでネクタイから手を外してやる。
「当たり前だろ」
「じゃあやっぱオレの事好きなんじゃね?」
「だから、そう言ってんだろうが。じゃなくて、今はお前の話なんだよ。何が”アリじゃね?”だよ。最初から”お願いします、付き合って下さい”って言え」
 今度は頭を両手で掴み、力を加える。
「だからなんで上から目線なん…イデデデデ」
「上から目線はお前だろうが!調子に乗りやがって」
 とどめに、髪の毛をぐしゃぐしゃにかき回してやる。実はこれが一番いやだったらしく、手を振り払われた。

「つか授業戻る?」
 適当に髪を直した後、何事も無かったように慎吾が呟いた。
 急に現実に引き戻されて、しばし思案するが、どうにもそういう気分ではなかった。
「いんじゃないか?別に」
「へー」
 慎吾が少し珍しいものを見るように、こちらを見る。
「ここ、割と涼しいな」
 そんな視線を無視して、階段の踊り場を眺めながら、身体を少し後ろにずらして壁に背中を預けた。耳を澄ますと、階下から教科書を読んでいるであろう声がかすかに聞こえてくる。
 思い返すと、先ほどの慎吾の笑い声などは響いてしまっていたかもしれない。
「てかさ、ちょっと眠くなってきた」
 隣を見ると、慎吾の視線が少々うつろだった。さっきの今で眠気を呼び起こせる慎吾の神経は相変わらず分からない。
 そのまま慎吾はこちらに寄りかかりそうになったのだが、肩が少々触れた途端に「熱っ」と言ってすぐさま身体を離した。
「お前体温高くね?マジ熱い。今気づいたけど。何その反 省エネ体質」
 何やら勝手に文句を言う。
 少々カチンと来て、更に熱い手のひらを両頬に押しつけてやった。
 すると悲鳴を上げてすぐさま後ずさり「無いわお前。マジ無えよ」などと睨みつけてくる。
 オレは声を潜めつつ、笑い声をあげた。
 今、クラスで行われているのは担任の授業だ。オレと慎吾が居ない事に、担任は気が付いているだろう。
 そして後から咎められるに違いない。しかし、叱られるのは先程から声を響かせている慎吾の割合が多いだろう。
 ざまあみろ、なんて思った。オレを振り回した何十分かの一でも痛い目をみればいいのだ。

 慎吾は、例えるなら風船だ。ふわふわとして、掴めない。掴もうとすると、ふわりと上がり、諦めようとすると側にゆらゆら漂っていたりする。
 本当は、そういうはっきりしないものは苦手だ。何事にも白黒つけたいし、不安要素はなるべく自分の中に抱え込みたくない。振り回されて、心が休まらないからだ。
 しかし、オレの心はその気まぐれな風船を気にいってしまっていて、今だって抑制しておかないとおかないと、目いっぱい手を伸ばしそうになる。
 馬鹿だと思う。
 仮にも気持ちが通じ合ったのに、それでも慎吾に振り回される日々が容易に想像できる。
 嗚呼嫌だ。
 それでもきっと、オレの手は、慎吾を掴まえようとしてしまうのだ。



 
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