和己と慎吾の物語1
「ほれ」 慎吾がピラピラとネクタイを上下に振っている。早くやれという意思表示だ。 オレはそのネクタイに手をかける。結び目から布をゆっくり引き抜いて解き、シュルシュルと衣擦れの音をさせて襟からネクタイを抜き取る。 慎吾はただ、その光景を見下ろしている。表情には何の変化も見受けられない。これから起こる事に対して感情を動かす事は何も無いという風に。 そしてオレはシャツのボタンに手をかけた。一つ外し、そして二つ目のボタンを外すと、少しだけ慎吾の鎖骨が見えた。 そこが限界だった。 「無理だぁあ!」 手に持ったままだったネクタイを床に投げつけ、大股で部屋の扉へ歩いてドアノブに手をかけた時、「待て待て待て」と静止された。 「とりあえず落ち着け。ていうかびっくりするわお前」 慎吾に肩を掴まれる。 しかし慎吾の神経が、今の段になってやはり理解できないと悟ったのだ。 「オレには無理だ」 「いやまぁ、それは充分伝わったけど。でもそこまで思いつめなくても良いだろ」 オレが考えすぎだとでも言いたいのか。 事の発端は一時間前。部室に人影が大分減って来た頃だった。 だらだら着替えていた慎吾の裸の上半身をなんとなく眺めていたら、喉元から胸元にかけて一筋の汗が伝い落ちていくのが見えた。 何だか分からなかったが、それが妙に衝撃的で、こういうのに女子は『良い』と感じるのだろうかなどと思った。 思えば野郎の裸なぞ毎日見ているというのに、何故その時だけ違って見えたのか、それは今でも分からない。 しかしそれは心の中に残り続けていたので、物事を内側に貯めておきたくない、というか貯めておけないタチの自分は、冗談交じりに話したのだった。 話してしまったというべきか。 ”お前キモッ、いやいやマジで” なんてリアクションを想定していたのだ。そしてオレも、”いや〜、ビックリするよな〜、実はこういう時に走るのかもしれねえな、男に”と、”男に”の部分を強調してニヤリと笑ってやろうとそこまで考えていたのだ。 しかし。 慎吾は少し考える風な仕草をした。そしてオレの顔を見た。 呟いた。 「アリじゃね?」 「……」 何も言えなかった。いや、言った。固まってしまった次の瞬間にはちゃんと言ったのだ。 「いやいや無いだろ。無いから。無いし」 三度言った。 「でもこういうのって、意外とノリじゃね?」 どこかのチャラ男風のノリで更に返された。 「つうか、試す価値はあると思うんだよオレ的に。意外と、新しい扉が開くかもしれないだろ。新たな夜明けを迎える的な?」 言っている事が良く分からないが、気が付けば慎吾の家へと連行されていたのだ。 「お前が何かギリギリだってのは伝わってたけど。根本的には何が無理なんだよ」 問い質される。 「いやなんか、お前の鎖骨が見えた瞬間、いや、ネクタイを解いてる時から、いけない事をしているような気が物凄くしてた」 「成る程」 うんうん、と分かったような相槌を打たれる。 「悪い事をしてる気になったと。でも嫌な感じとは違うんだな?」 「うーん、そうだな。そうと言える…のか?」 自分でも自分の心の内が分からない。しかし慎吾はまるで分かっているといわんばかりだった。 「じゃあこれは?」 瞬間、慎吾の体温が僅かに制服越しに伝わってきた。 背後から抱きつかれて、首筋に慎吾の髪が当たっている。酷く恥ずかしくて、どうしていいか分からなくなる。とにかく焦っていた。何故こいつはこういう事が出来るのかと思った。 「おーい」 こいつにとっては大した意味を持たない事なのか。慎吾の身体の感触がどれもリアルで頭が少しぼうっとする。 「わかった、とりあえず止めるか」 完全に固まってしまったオレを半ば宥めるように言って、あっさり慎吾は体を離した。 「そういえばさ、数学の宿題ってお前やった?」 急になんでもない話題へと切り替える神経が理解できない。 「やってたらノート貸してくれ。頼むわ…マジで」 オレを部屋へ連行する時よりも余程深刻そうな面持ちで言う。 「明日こそは当たりそうな予感がすげぇする」 そう言って、オレの鞄をごそごそと勝手に漁り始めた慎吾がどこか遠いところの住人に見えた。 「お、あった。…やってあんじゃん、さすが和己。さすが主将!オレ達の主将!」 感激したようにそそくさと自分のノートへと写し始めた。そこに至ってオレはようやく自分の鞄を拾い、ドアノブを握る。 「明日ぜってーノート持ってくから安心してくれ」 後ろ手に閉めたドアの向こうで、そんな声がした。 「どしたんすか和さん」 きょとんとした準太が、少し首をかしげつつこちらを見ている。 「いや、すまん。少し心を落ち着けたくてな」 翌日、視界の隅に映る慎吾の姿に落ち着かず、オレはとうとう教室を抜け出して準太の元へと逃げてきた。 三年のオレが二年の教室にいるという違和感はこれ以上なくあったが、もはや構っていられない。 「からあげでもどうですか」 準太が自分の弁当箱からひょいとからあげを摘み、差し出してくる。そんなちょっとした心遣いに感動しそうになる。 「ありがとな…」 「いえ別に、全然」 普通とはいえない様子のオレに若干引いているのは伝わってきたが、そんな事すら気にならなかった。 最近、準太と一緒にいる時間が増えた。余計な事は聞いてこないし、屈託無く接してくれるし、オレの、練習中以外の情緒不安定ぶりをそれとなく気遣ってもくれる。正直、有り難い存在だった。 「準太、お前好きなやついるか?」 「え、なんすか急に」 準太がぎょっとしてこちらを見る。無理も無い。野球以外のプライベートな話をする事はあまり無い上に何の脈絡も無い質問だったからだ。 しかし、最近元気の無いオレを気遣ってか、律儀に応えてくれる。 「いるような…いないような」 腕を組み、考えながらの返答。 「どっちなんだ?」 更につっこんでみる。 「かわいいとは思うんですけど、それが好きかっつーと…よくわかんねっす」 準太の脳裏には、きっと可愛い同級生あたりが浮かんでいるに違いない。だというのにオレときたら。 「お前はモテるんだから、悔いの無い恋愛しろよ」 達観したようにそんな事を言うと、さらに準太はびくっとして若干身を引いた。 「なんスかさっきから。ほんと何かあったんすか和さん」 いぶかしげに、しかし本気で心配し始めた準太を尻目にオレはここ数日の出来事を思い返していた。何かあったといえば確実にあったし、その後は何も無かったといえる。 というよりは、慎吾の方からのリアクションが皆無だったというべきか。 男同士で「アリじゃね?」なんて軽いノリで、触れ合おうとした事件。今考えても冗談にも出来ない出来事だったにも拘らず、慎吾はあっさり身を引いて、その後は何事も無かったかのように日々を送っている。オレにはそれがどうしても信じられなかったし、まるで慎吾にとっては気にするほどの事ではなかったと言われているような気がして、正直、落ち込んでいた。 しかし、落ち込んでるばかりじゃいられない。いや、それならこちらも、何も無かったぐらいの気持ちで接しなければと思っていたのに、否応無く視線はうっかり慎吾を追ってしまう始末だった。 そして恨みがましく思う。人の気持ちを何だと思ってるんだ、などと。 そもそもの発端は自分だというのに。そして行為を止めたのも自分だった。だけど、もうちょっと、こちらの気持ちとかそういうものを察してくれても良いんじゃないか、そう思うのは身勝手だろうか。 「和さん?」 いや、やはり身勝手だ。大体、うっかり慎吾に欲情したのも自分だし、慎吾はそれにノっただけだというのに。 しかし、しかしだ。あんな事があって人は平然としていられるものなのか。 「和さーん!」 「何だ!」 大声に我に返る。 「あらぬ所見てたんで。それと休憩時間そろそろ終わりじゃないっすか」 「あぁ…そうか、すまん」 最近、こんな事ばかりだ。同じような事を考えて、慎吾の平然とした態度にがっかりして、また思い悩んで。 正直、辛かった。 あれから、慎吾とのあの一件からもう十日は過ぎただろうか。思い出すたび暗雲たる気持ちを抱えて日々を過ごしていたオレに、唐突に声はかかった。 「和己ー」 慎吾が教室でこんな風に声をかけてくる事は、久しぶりだった。つい、心臓が跳ねる。 声をした方を見ると、友人と三人でいたらしい慎吾が、ノートを振ってこちらを見ていた。 「グラマーやった?」 普段通りの様子で、聞いてくる。ただの宿題の催促だった事に大いに落胆し、何故こんなやつに振り回されるのかと腹が立つ。まして宿題など見せてやる義理もない。 オレは机に向き直り、机に出ていた教科書を片づけ始めた。自分は馬鹿だ、自分は馬鹿だと頭の中で唱えながら。 「おい、無視すんなって」 気がつけば目の前に慎吾はいた。顔には曖昧な笑みを浮かべている。至近距離で向かい合うだけで、一々反応する心が鬱陶しい。 「…別に」 「何怒ってんだよ」 ちょっと機嫌が悪い程度に捉えているであろう慎吾は、やはり少し笑みを浮かべたままで怪訝そうに聞いてくる。 「宿題ぐらい自分でやればいいだろ」 「ケチくせー事言うなって」 「うるせえ」 そのまま席を立つ。別に行くところなどなかったが、その場を離れたかった。 人通りの殆どない、階段の踊り場の窓から中庭を眺め、ため息をつく。 女子が窓辺でつくため息ならいざ知らず、むさい男では敬遠される絵に違いない。 「かーずき」 びくりと内心、身をすくませる。 「なーに怒ってんだよ。お前最近、怒りっぽくね?つか情緒不安定?」 相変わらずの、軽い口調の慎吾が、近づいてくる。オレはそちらを見ないまま外を眺めるばかりだ。見てたまるかと、くだらない事を思う。 すると慎吾は真横に立った。窓から腕を出してもたれかかる。その、あまりまだ日焼けしていない腕だけが視界に入った。 とりあえず、ブログにアップした四話です。 → top |