夜桜お慎80〜89
 和己が組に入ってから三年目を迎え、季節は梅雨に入っていました。山ノ井ショックからは三ヶ月程が過ぎ、戦々恐々としていた慎吾と和己はようやく、山ノ井に本当に悪意は無かったらしいと気を緩めることが出来つつあったのでした。
 和己は二十五、慎吾は二十四になっていました。相変わらず仕事と組員との両立をこなす和己は、慌しい日常を過ごしていました。
 そんなある日、和己は一吾に呼び出されたのでした。土曜だったのでいつものように掃除に勤しんでいた和己は、回る洗濯物を確認してから、一吾の部屋へと赴いたのでした。

「遅くなって悪かったんだが、奉公明けだ。ご苦労だったな」
 突然切り出された話に戸惑いを隠せません。呆然としつつも聞き返します。
「…と、言うのは…」
「よく頑張ってくれた。本当は二年が区切りなんだか、ここの所忙しくてな。遅くなっちまった。もう、屋敷の事はしなくていい」
すっかり、下っ端仕事を組に所属する限りずっとしていなければいけないのかと思っていたので、驚きを隠せません。
「もう屋敷内にいる事も無い。自由にしていいぞ。昔なら自分の事務所を持つなりしろって言う所だがな。そんな気も無いだろ」
「それは、そうですけど」
急な展開に頭がついていきませんでした。
「それと、これを取っておけ」
何やら分厚い封筒を渡されます。条件反射で受け取り、中を確認すると、福沢諭吉が目に飛び込んできました。
「本来なら二百万ぐらい渡してやるとこなんだがな、お前は週二の奉公だったから、四分の一にしてもらった。まぁ、給料だって貰ってるんだから困らないだろ」
和己は、気の抜けたような声で「はぁ」と返事をし、しかし大事なのはそこではない、と辛うじて考えたのでした。
「あの。オレは、屋敷を出て行かないといけないんでしょうか」
「そりゃお前の自由だ。出て行く奴が多いが、居残る奴も居る。けどお前もあんな寒くて狭い部屋にずっといたくないだろ。屋敷には、やっぱり残りたいか?」
少し悪戯っぽい顔で聞いてきます。それは勿論、慎吾の存在があるからです。
「はい、置いて頂けるなら」
「なら勝手にしろ。これまでみたいに掃除しろとは言わないが、ただ何かと手伝ってもらう事はあるぞ。部屋はもうちょっとマシな所に移れ。言っといてやるから」
「有難うございます」
というわけで、和己は突然、組の奉公から開放されたのでした。

 これまで皆無と言って等しかった休日が急に与えられ、一体何をして良いのかと、部屋に戻ってぼんやり考えます。
 畳に横になり、壁掛け時計の秒針が、ゆったりと回っていくのを眺めながら、取りあえずは今日の分の洗濯物はちゃんと取り込もう、最後の奉公だからちゃんと終わらせようなどと考えました。しかし今後は何をすればいいだろう、普通はどこかに遊びに行くのかな…と考えたところで、ようやく考え付くべき所へ思考が働いたのでした。約二年間、まとまった時間を過ごす事が出来なかった慎吾の事です。恋人であれば、休日は外出するとか、二人でまったりと部屋で過ごすとかいった平凡ながらも大切な事がこれまで出来ないでいたのでした。
 しかし慎吾は文句を言った事はありませんでした。和己の忙しい日常を知っていたからにしても、我慢していたに違いありません。会えるのは精々、仕事などを終え、人目につきにくい深夜でした。
(屋敷じゃ人目につくから、外で会ってデートでもしよう。いや、この際まとまった休みを貰って旅行に行くってのはどうだ?空白の時間が長かったけど、あいつとは付き合い始めて何年も経ってるんだ。普通の恋人同士なら旅行の一つや二つ行ってるのが当たり前だろ)
とそこまで考え、「オレって酷い恋人だなぁ…」と一人呟きました。
 慎吾に無理をさせてきた事を改めて振り返ります。四年間会わないなどという約束を取り付けたのも、組に入ったのも、全て和己の独断でした。それが慎吾との将来を考えてのものだったとしても、結果的に我慢をさせてきたのは間違いありませんでした。

 その夜、和己はひっそりと慎吾の部屋を訪れました。人が居ないのを確認し、ゆっくりガラス戸を開けます。慎吾はベッドにうつ伏せに寝そべって雑誌を見ていました。
 後ろ手に戸を閉め、「慎吾」と小声で声をかけます。するとびくっと反応し、ばっと後ろを振り返ったのでした。
「何だよびっくりすんだろ!気配消して入ってくんなよ!入る前に声ぐらいかけろ馬鹿」
少し驚かすつもりが慎吾は余程驚いたようでした。
「すまん」
「大体よー、オレが一人シコシコやってたらどうするつもりなんだよ。気まずいだろ」
「一人でやってないでオレを呼べば良いだろ」
「お前、明日も地獄の床拭きが待ってんだ、とかってたまに拒否んだろ!」
「もうしない」
「?」
 そこで和己は事の次第を話しました。これからは二人の時間が十分に取れ、更には一緒に旅行に行きたいと考えている、と。すると慎吾は喜色満面の笑みを浮かべ、本棚から慌てて雑誌を引っこ抜いてきました。更に、付箋のついたページを開いて見せます。
「ここに行きたい」
どうやら前々から、もし旅行に行けるならと目星をつけていたようでした。しかしそれをおくびにも出さなかった事に、和己は申し訳ないような切ないような気持ちになります。なんでも希望を叶えてやりたいと思いました。
「じゃあ行こう。あまり忙しくない時期を狙って有給願いを出さねえとだから、ちょっと待つかもしれないけど」
「ここで良いのかよ」
「そこに行きたくて、付箋まで付けてたんだろ」
「まぁ、そうなんだけどさあ。でもココ良くね?ちゃんと見ろよ。雰囲気良いと思わねえ?」
雑誌には、大正時代を思わせるような、古民家風の温泉宿の写真が載っていました。
「確かに良いな」
「だろ?」
「お前こういうの好きなのか」
江戸屋敷のような所に住んでいる為、和風な雰囲気を漂わせるものには飽き飽きしてるのではと思っていたのです。
「大正ロマンっての?無いじゃん、こういうのあんまり。和風の中にも洋風が掛け合わされたみたいなさ。外国の文化が入り混じってる感じの。このステンドグラスとか、白壁に彫ってある文様とか、レトロな照明とか。ちゃんと手入れがされてて綺麗だし。何かもう、全ての要素がオレ好み」
と、慎吾は満足げに特集ページを改めて見やったのでした。

 ところが数日後、思わぬ横槍が入ることとなりました。
 朝、和己がいつも通りに出勤の支度をしていると、邸内がにわかに慌しくなったことに気がつきました。
「とにかく急げ!他の組に遅れを取るんじゃねえ!」
「喪服も用意しとけ!傘下の事務所には連絡入ってんだろうな!」
バタバタと大きな足音、怒声が飛び交います。ただ事ではないことが察せられ、着替えの途中でしたが部屋を飛び出しました。
「何かあったんですか」
兄貴分の一人が通りがかった所で声を掛けます。
「高島組の先代が危篤だ。とにかく駆けつける必要がある。今は説明してる時間はねえ」
言うだけ言って、廊下を走り去っていきます。
 その後、組長である悟、一子、一吾、慎吾、そして初めて目にする先代組長の慎之介が幹部を伴って屋敷を慌しく出立していきました。

 会社へと向かう電車の中で、事の次第について和己は考えます。高島組はこの国で最も大きい組であり、島崎組組長の悟はそこの最高幹部である事は以前に慎吾から聞かされていました。また、先代組長、つまり慎吾の祖父が昔の大きな抗争の際に、高島組の先代に大きな貸しがある事も。その人物が危篤だというのは確かに大事であり、いの一番に駆けつける立場である事に違いはありません。しかし、現組長ではなく、先代の危篤に、それ程の影響があるものなのかとも考えます。朝の切迫した空気を鑑みるに、どうもそれだけではないような予感がしていたのです。”説明してる時間は無い”と言った兄貴分の言葉にも引っかかりを覚えていました。説明するような事があるという事です。
 また、和己は一吾が四ヶ月程前から忙しく動き回っていた事にも思いを馳せます。一度も同行しろとは言われなかったものの、頻繁に関西へと足を運んでいたようでした。組関係の用事である事は間違いありません。信用を得ていると思っていたのに、同行させてもらえないのは下っ端だからなのか、などとその頃は考えていましたが、何か大きな動きが関わっているように今は思えるのでした。

 その日は悶々とする気持ちを抑えつつ、仕事を終えて組へと帰りました。そして帰宅してすぐ、高島組前組長が亡くなった事を知らされました。組長始め、幹部たちはそのまま通夜に参加しているとの事でした。
 和己達居残り組はそのまま待機を命じられました。特にこれといってやる事も無いので通常通り出勤するようにと言われます。そのまま数日が過ぎ、慎吾達が戻ってきたのは五日目の夕方でした。
 その数時間後、組員たちへ大広間へ集まるようにと伝えられ、更に続々と傘下の組長達が組に姿を現しました。それを慌しく迎え、和己もまた時刻になり大広間へと向かいます。普段は屋敷にいない幹部、組員でそこは一杯になっており、八十名は下らないであろう人間が一堂に会するのを、和己は始めて目にしました。

「皆も知っての通り、高島組先代が亡くなられた。ウチの先代とは深い交友、絆で結ばれていた方だ。これは、ウチの組にとっても一つの契機となる。…皆、落ち着いて聞いて欲しい」
そこで悟は一息入れました。組員たちを見回します。
「これは、以前から義父殿とも話し合っていた事だ。…島崎組は、解散する」
 場が騒然となりました。無理もありません。和己も事の次第についていく事が、出来ませんでした。
「もう一度言う。島崎組は解散する。これはもう決まった事だ。幹部は既に了承している。ウチのシマに関しては、それぞれの(傘下の)組に分配される事になる。ただ、下の方には寝耳に水の話だっただろう。これまで話す事が出来ず悪かった。身の振り方に関しては、こちらで出来る限り相談に乗る。よく考えてくれ。今のまま極道でいたいのならそれもいい。カタギも良いだろう。金融部門は残すつもりだから、そこで働いていく事も可能だ。…何か質問はあるか」
慎吾達一家と幹部を除いて場は大きなざわめきに包まれました。頭の処理が追い付いていないのか、暫く間がありましたが、やがて一人の組員が、何故解散するのかと声を上げました。
「一言で言うなら、ウチがもう必要とされてないという事だ。大きい意味で言えば、極道モンが必要とされる時代はとうに終わったと思っている。それでも高島組の抗争では先代の力が大きな影響を及ぼした事もあったが、そんな時代ももう終わって久しい。だから組員の数は年々減らしていった。世間には、こういう世界で無ければ生きていけないようなはみ出し者もいるが、それはそれぞれの幹部が立派な受け皿になってくれるだろう」
場は静まり返りました。一体どうすればいいのか、皆一様に分からないで居るようでした。
「色々考える事もあるだろう。この場は解散する。聞きたいことのある奴はいつでも来てくれ。ただし明日以降だ」
そう言って悟は話を打ち切ったのでした。

 しばらくすると和己は徐々に冷静さを取り戻し、冷えた頭であれこれと考え、導き出された答えは”これが一番良い”というものでした。
 組長である悟は元々カタギから結婚を期に組に入った人間でした。組長というものに未練は恐らく無く、長男の一吾に実際仕事を一任していました。また、経営者としての顔を考えれば、組の存在は障害以外の何者でもありませんでした。イメージ第一のサービス業にあって、ヤクザのヤの字も出てはならないのです。悟はその点に於いて神経を磨り減らしてきた事は想像に難くありません。恐らく、つきに一度程度しか屋敷に戻らないのも、その辺を考慮してそうしていたのではと思われました。
 また慎吾は、ヤクザ業ではなく、殆ど会社の方に比重を置いていました。その代わりにヤクザ業を一任されていた兄の一吾でさえ、会社の仕事を手伝わされそうだという話もありました。組の解散は急に決まったことではなく、以前から決められていたのだと言えます。組員の数が昔に比べ激減している、新しい人間を全く入れていなかった、という事実からもそれは伺えました。
 幹部は既に了承済み、という事から、上層部では既に固まっていた話だったのでしょう。一吾が関西に頻繁に足を運んでいたのも、組の解散に関しての事に違いありませんでした。
 ある程度、頭の整理が出来た所で和己は慎吾の携帯へとかけました。
『もしもし』
少し疲労の滲む声が聞こえました。
「話があるんだけどな。疲れてるなら明日でも良いぞ」
『や、いーよ。ちょっとなら。つーかかかってくるの待ってたし』
「そうか」
組の解散は、少なからず慎吾と和己の将来にも関わってくる問題でした。
「とりあえず、組の解散ってのは、オレ達にとっちゃ良い事だと言えるよな?」
そこをまず確認しておこうと思いました。男同士という以外に、言うまでもなく”極道”という分厚い壁が二人の間に幾度となく立ちふさがってきたからです。
「仮に、オレとお前が駆け落ちしても、沈められたり埋められたりってもう、しない、よな…?」
語尾が不安げになったのは、かつての悟の剣幕を思い出したからでした。
『駆け落ちすんの?』
「いや、そこじゃなくて。仮にの話だ」
『なんだよ』
少し不満げに返ってきます。更に続いた言葉は、
『多分しない、かなぁ…』
という何とも残念なものでした。
『だってそりゃ親父は組長じゃなくなるけどさ。傘下の組は沢山存在するわけだし。ちょっと声をかければやってくれると思うよ?』
気軽に言い出しました。相変わらずその辺の緊張感は持っているように感じられません。
「駄目じゃねえか全然」
大きく溜息をつきました。もしかすると慎吾との未来が明るく照らされるのではと期待した分、落胆は隠せません。
『や、でも。しねえって。親父は基本、血生臭い話は嫌いだし』
「ホントか?」
どうにも信用できませんでした。
『寧ろ兄貴のがするかも』
「一吾さんが?!」
『兄貴もさ〜、どこにスイッチあんのかイマイチ良く分かんねーんだけど。たまにわけわかんねートコでキレたりするし』
しかし和己はこれまで一吾が激高たりする所を見た事がありませんでした。いつも沈着冷静で物事を的確に判断し、そつの無い様は見ていて憧れさえ抱かせるものでした。
 その日は疲れている慎吾に気を使い、改めて二日後の休日に詳しい話をする約束をし、携帯を切ったのでした。

 しかし次の日の夕刻、和己は一吾に声をかけられました。
「よう」
部屋に戻る途中の廊下で、中庭を眺めながら一吾はタバコを咥えていました。ここ数日の疲れか、目の下にはわずかにクマが出来ているようでした。
「…お疲れ様です」
昨日の慎吾との会話が甦り、自然と声が硬くなります。
「何ていうか、悪かったな。入って二年足らずで解散なんて考えもしなかっただろ。何の為に入ったんだかな」
「いえ」
「でもお前達にとっては良かったんだな。厄介な障害が無くなる」
日は既に沈み、一吾の吐き出したタバコの煙が闇へと消えていきました。
「慎吾と付き合いだしてからは何年になる?」
「…八年目でしょうか」
「そうか。長いな。オレはそんな長く続いたこと無えよ」
よっぽど相性が良いのかな、それとも愛があるとかそういう事か?と独り言のように呟きます。
「思ってたんだが、お前はちょっと普通じゃないよな。極道と聞いてビビるどころか喧嘩売りやがったんだからな」
「そんなつもりでは」
「そんなつもりが無くても、あれはそうだろ。言っちゃなんだが、もし他の組で同じ事やったら冗談じゃなく無事じゃすまないと思うぞ。ウチがちょっと特殊なだけで」
「……」
「でもそれも考えのうちか。そんな事はやらないと踏んでたのか」
「いえ、それは…。ただ言えるのは、あの時は必死でした。あの機会を逃したら、慎吾とは終わってしまうんじゃないかと思って」
「それは無いな」
一吾は断言します。視線は相変わらず、闇に支配された中庭にありました。
「何故ですか」
「慎吾の気持ちはいつだってお前にあった。お前が慎吾を諦めることがあっても、慎吾の想いが消えることは無かった」
「……」
「違和感があったんだ。慎吾が高校生の頃だ。野球に打ち込んでて後は適当な弟が、何かに気を取られてると思った。これまでそんな事は一度も無かった。好きな女でも出来たのかと思ってたが、それにしたってだ。まるで何かに捕われているようだった。卒業してからお前が現れて確信した。原因はこいつだってな」

 一吾の顔が一層無表情になっている気がしました。吐き出される内容もにわかに緊張感を孕んできていました。
「厄介だと思った。完全に、知らない間にカタギの男に捕まっちまってた。更に面倒なことにそいつは、妙に我慢強く、小ざかしい程に頭が回り、変に度胸があった」

「簡単に別れさせられないと思った。慎吾の気持ちがあったからだ。逆に言えば、それさえなきゃどうとでも出来たんだ」

「だけどなあ、それにしたってちょっと行き過ぎだと思わないか?慎吾の、まるで依存するかのようなお前への感情だ。お前がいなきゃ生きていけないと言い出さんばかりの顔をしてた」
和己は、完全に呑まれそうになっている自分を自覚していました。一吾は初めて和己の顔をその時真正面から見据えました。
「ずっと聞こうと思ってたんだ。なあ和己、何したんだ。慎吾に」
「……」
「聞いてるんだ。答えろ」
有無を言わせぬ言葉に、和己は観念するしかありませんでした。下手な言い逃れなど通用しない事を悟りました。
「私は、慎吾に惚れてました。でもある日を境に、言いようの無い気持ちに支配されました。一言で言えば独占欲です。どす黒い。慎吾を自分のものにしてやろうと決意しました。出来る事ならなんでもしてやろうと。自分以外、見えなくしてやろうと。その時、慎吾はまだ踏みとどまってました。だけど、手を掴んで引きずり下ろしました。その日以来、ずっと態度で、言葉で示してきました。誰よりも愛しているから、お前にはオレ以外いないんだと。まるで、…洗脳するように」
全て包み隠さず話したのは、贖罪したかったのかもしれないと和己は思いました。目の前の人間が、許してくれるような甘い人間では無かったとしても。
「馬鹿正直だなお前は」
まるで他人事のような口ぶりで一吾は言いました。
「でもまぁ、事の真相が分かってよかった。オレははっきりしないのは嫌いなんだ。思考が定まらないからな」
 次の瞬間、和己は自分の身に何が起こったのかを理解するのに数秒を要しました。目の前にいた一吾が斜めに傾いた、と認識した瞬間に腹に酷く重く鋭い衝撃がつき抜け、次いでそれに伴った強烈な痛みに襲われました。日頃磨いてきた床が視界一杯に広がると、膝を付き、そのまま頭を打ち付けました。しかし腹部の強い痛みが何よりも勝りました。まるで内臓を直接握りつぶされているかのような、これまで経験したことの無い痛みに、うめき声さえ上がりませんでした。
 頭上で何か言われたような気がしましたが、全く頭に入ってきませんでした。呼吸さえ苦しく、一体自分の身体はどうなってしまうのだろうと和己は思ったのでした。


 見慣れた天井がぼんやりと視界に広がり、しばらくして、ああ自分の部屋だと和己は認識しました。次いで、自分は気を失っていたらしい、と思い至ります。布団に寝かされているらしく、身じろぎしようとすると、腹部に鋭く痛みが走りました。少し筋肉を動かしただけでこの痛みは尋常ではないのでは、と不安にかられます。
「お、目が覚めたか」
聞き覚えのある声は、兄貴分の久保のものでした。

 暫く事情を聞いていると、どうやら一吾が久保を呼んでくれたらしい事が分かりました。
「お前何したんだよ。一吾さんは滅多に身内に手は出さねえぞ」
その滅多な事をしてしまったが為に和己はこうなってしまったのでした。
「少し動いただけで腹がまだかなり痛むんですが…」
弱弱しい自分の声に情けなくなります。
「そりゃみぞおちに一発くらったからな。一吾さんは有段者だし。でも足技じゃなかっただけマシだ。あの人の得意技は蹴りだから。後で見てみりゃいいけど、凄い事になってるぞ。内出血で赤紫色になってる」
「大丈夫ですかね…?」
「血を吐いたわけでもねえし。内臓破裂なんて事にはなってねえよ。じゃなきゃこんなのんびり話してられねえしな。心配なら病院に行ってもいいけどよ」
さすがにヤクザの世界に生きる人間にとっては、慣れた事のようでした。そうは言っても、これまでひたすら地味に奉公していた和己にとっては、それなりにショックな出来事でした。極道の世界の一端を垣間見たように思いました。時と場合によっては、何倍も血生臭いことが起きている世界なのです。
「オレがこうなった事、久保さん以外に誰か知ってますか?」
「…誰にも言ってねえけど」
「そうですか。あの、誰にも言わないで置いてくれませんか」
慎吾に、この事を知られたくありませんでした。
「そりゃ良いけど」
「有難うございます。あと、ここに運んでくれたのも久保さんですよね。本当に有難うございました」
「水臭え事言うなよ。弟分が何かあったら出てくんのが兄貴分だろうが」
「…はい」

 その日は食事を取る気にもなれず、体を動かす際の痛みもあってトイレに行くのみで済ませた和己でしたが、鏡で腹を確認してみると言われたとおり凄いことになっていました。殴られた箇所に直径十センチ程の濃い赤紫色の内出血がありました。見ていると自分の身体ながら気持ち悪くなってくる程でした。

 翌朝、和己は未だ軋む腹を庇いつつ、出社しました。本当に大丈夫なのだろうかと腹の痣を見る度不安になり、結局は仕事帰りに病院に赴いたものの、医者には「内出血だね」と一瞥しただけで断言され、寧ろどうしてそんな酷い痣が出来たのかと問われ、返答に困る始末でした。

 やや遅い時刻に屋敷に帰り、部屋の襖を開けるとそこにいたのは慎吾でした。昨日のショックな出来事にすっかり忘れていましたが、詳しく色々話そうという約束を思い出したのです。
 しかし別の事実にも思い至ります。慎吾が和己の部屋を訪れるのは普段限られており(ケジメの為に他の組員に見つからない用に)、訪れた時には大抵コトに及ぶのが当たり前となっていたのでした。しかしそんな事になれば、腹の酷い痣が見つかるのは明白でした。そもそも激しい運動に耐えられそうにありません。そこで和己は、殊更疲れたように装うことに決めました。「どっこいしょ」などといっておっくうそうに腰を下ろします。慎吾からは「ジジ臭い」と容赦なくツッコまれました。
「組が立て込んでるときに限って、仕事まで忙しくてな」
などと言って溜息をついてみせます。更に「横になっていいか」と断って、布団を敷き、布団に潜り込みました。
「明日が土曜で良かったよ。疲れが取れなくて」
と言って慎吾の反応を伺います。
「マジでジジくせーよ。同い年の癖にそういう事言うなよ。こっちまで老け込むだろーが」
事情を全く知らない慎吾はどこまでも辛らつに言ってのけました。
「それはそれとしてよ、お前これからどーすんの?」
どうする、とは当然組を解散した後の事を指していました。
「実家戻んの?」
心なしか、慎吾の声が寂しげでした。
「…屋敷は出ないといけないからな」
実は何も考えていませんでした。というより、考える余裕が無かったのです。昨日の告白に端を発した一吾の行動に思いを馳せ、自分は確実に慎吾にとって有害だと捉えられたと和己は感じていました。いや、元々見抜かれていたのです。大事な弟に、河合和己が何かをしたのだ、という事を。
「何考えてんの?」
慎吾が顔を覗き込んできます。何となく、その目を直視することが憚られました。自分には資格がないのだという思いに駆られます。自分が必要以上に慎吾に執着しなければ、慎吾は自分以外の相手をそのうち見つけていた可能性だってありました。しかしそれを和己は許すことが出来なかったのです。
 潮時かもしれない、と思いました。いづれにしても、一吾がこのまま黙っているとも思えませんでした。
「…慎吾」
「何」
深く深呼吸し、先程は外した視線を合わせました。そして口を開きかけると、それを慌ててさえぎられたのでした。
「何言おうとしてんの。何か嫌なこと言おうとしてるだろ。何か、オレから離れようとか考えてないよな。嫌だからな」
何かを決心したような和己の表情に、慎吾が先手を打つように言います。
「慎吾」
「駄目だよオレもう。無理だって。数年前はまだ、大丈夫だったかもしれないけど、絶対もう無理だって。お前がもし別れようとか言ったとしても、それを自分にそれを理解させようとか、そんな努力出来ない」
慎吾の取り乱しように、和己は黙って見ていることしか出来ませんでした。これが自分のやった事に対する結果だと思いました。自立していた人間を、依存の方向へと追いやった事の。
「慎吾、違うから。言ってなかったことがあるから、それをお前に言おうと思って」
「それって何だよ…」
慎吾の警戒心はまだ解けていないようでした。出来ることなら耳を塞ぎたいといいたげでした。
「お前と初めてホテルに泊まった時の事覚えてるか。オレの誕生日だった」
「…そりゃ覚えてるけど」
「初めて男を抱く、ってなって、オレは内心ビビってたんだ。ちゃんと上手くいくのかって。お前のことは好きだったけど、またそれとは問題が違ってくるっていうかな」
「……」
「でも結果的には心配なんて吹き飛んでた。お前の虜になってた。良く分からないけど、お前は凄く魅力的だった。色気があった。それに誘われるままいつまででもお前の体を貪っていたかった」
慎吾はわずかに顔を赤らめ、俯きました。
「その後思ったんだ。お前を誰にも渡すもんか、ってな。その為に何でもしてやる。手段がどうだろうが、そんな事は構わない。お前の意思なんか知らない。オレは他の奴の誰にもお前に触れさせるもんかと思った。そしてそれを行動に移した。お前を殊更大事に扱った。オレ以外に目が向かないように。お前を抱きしめて、好きだと囁いた。オレ以上にお前を愛せるものはいないんだと思わせようとして。唯一無二の人間なんだと信じ込ませようとした。いなくなったら生きていけないんだと、そんな風に思わせようとした」
慎吾は微動だにせず、話を聞いていました。聞いているというより、ただ呆然としているようにも見えました。
「お前が卒業と同時に連絡の一切を経った時、オレは何て思ったと思う?失敗したと思ったんだ。上手く行っていたはずなのに、慎吾は手を離してしまった。どこで間違えたんだろうと思った。このままだと、お前はオレを伴わない人生を歩んでしまう。そんな事は許せない、って」

「とんだストーカーだ。法に触れていないだけで、犯罪者紛いの事を考えてた」
「何でそれを、今更言うんだよ…」
 視線を一瞬さ迷わせ、慎吾は呟きました。
「それなら今更、言わなくてもいいじゃねえかよ!結局オレと別れるって話の前置きじゃねえか!」
 慎吾には、事の真相よりも、自分から離れていくという事実しか見えていないように見えました。今更ながらに、じぶんのしでかした事の重大さを思い知らされた気がしました。
「違う、慎吾。そうじゃない」
「じゃあ何だよ!」
「お前と別れたくなんかない。お前にこんな告白しておいても、それでもお前を縛っておきたい気持ちに変わりは無いんだ。最低なのは分かってる。それを自覚した上で、七年前に決めたことだ。だから、別れようなんてオレから言えるわけない」
「じゃあ何で今更」
「一吾さんにバレた。いや、バレてたんだ。だから、オレの口から言っておきたかった。…正直オレは」
一吾と対峙した時を思い浮かべます。
「ほっとしてた。後ろ暗い事は分かっていたから、暴かれてほっとしてたんだ」
慎吾を、真っ直ぐに見詰めました。
「ごめんな慎吾。お前の未来の選択肢を強引に一つに絞ったのはオレだ。謝って許されることじゃないけど」
「違う。オレだって…」
何か言いかけて、しかし慎吾ははっとしたように言いました。
「兄貴になんかされたんじゃねえの」
 掛け布団をひっぺがされて、服を捲り上げられて、慎吾は目に飛び込んできた酷い痣に絶句していました。
「ごめん和己…」
項垂れる慎吾に、お前は何も悪くないのだと和己は宥めました。自分のしでかしたことに比べたら、これぐらいの事は当然の報いだと思っていました。


 会社をずる休みした慎吾が、昼に自分の昼食を母の部屋へ運び込みました。
「ここで食いたいんだけど」
「何かあったの」
既に昼食を取っていた一子が、少し箸を止めて言いました。
「ちょっと悩んでる」
「…河合さんの事かしら」
慎吾はお茶を一口飲むと続けました。
「兄貴んトコ行こうとしたけど、したら和己にまた何かするかもだし」
一子は再び箸を取ってご飯を一口食べ、慎吾の言葉を待ちました。
「ちょっと和己と色々あって。…で、兄貴は和己が悪いと思ってて。…オレは、よく分かんなくて」
「河合さんが何かしたの」
「何かした…のかも。つうか和己はそう思ってて。兄貴も思ってて。てことはやっぱりそうなのかな」
「貴方はどう思うの」
「…よく分かんねえ。オレは和己が好きで、和己もオレが好きで、それで充分ていうか。でももっと、深刻に考えないと駄目なのかな。和己はオレを騙してたんだ、って言うけど。でも根底には好きって感情から始まったことだと思うんだよ」
慎吾の言う事は、事情を知らない一子にとっては状況を判断するのに全く情報量が足りていませんでした。しかしこの息子はきっと、頭の中を整理したくて来たのだと一子は思ったのでした。
「だからオレは…。でも、それじゃ駄目なのかな」
「駄目だなんて、一吾が決めることじゃないでしょう。貴方が考えて、感じて、そこから結論を出せば良いんじゃないの。貴方は貴方なんだから」
「…うん、そうかも」
そう言うと、慎吾は味噌汁を啜り、目の前の昼食に取り掛かったのでした。